英進塾_先生ブログ

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名づけの政治学[On Nickname]



時の天皇は女帝・称徳天皇、僧である道鏡を寵愛していた。


女帝は父母を亡くし、本人もまた病弱であった。そのような境遇にあった彼女が、生と死をマネージする術である仏教の師・道鏡に魅かれたのも無理はあるまい。


後継の天皇が決まらぬ奈良の政情は安定せず、「政刑(せいけい)日に峻(さか)しく、殺戮みだりに加えき」と回顧されている。木片に釘を打ち込んだのろいの人形さえ、平城京址から発見されている位である。 世は世紀末的様相を呈していたに違いない。


さて、女帝は愛する道鏡を天皇にしたいとさえ思うようになる。しかしもちろん、おいそれと就ける地位ではない。「法王」の名を賜り、大きな権力を握っていたとはいえ、血統の根拠無しに天皇の座に座るなど、唯の暴挙だ。


しかし、と女帝は考える。神託ならばどうだ。神からの託宣ならば、貴族らも民も納得するのではないか。仏教を奉ずる神が神を恃むとはこれ如何に、とも思うが、そのへんは女帝のなかで折り合いがついていたのであろう。


とまれ、宇佐八幡宮の神官らの「道鏡を天皇にすれば太平の世となります」というゴマすりの神託に女帝は乗った。 女帝は貴族らも納得する「清き明き」人を使いとして八幡へ送ることとした。女帝に寵された尼僧、和気広虫(わけのひろむし)の弟、和気清麻呂(わけのきよまろ)が使いとして選ばれた。


形式的なものの筈だった。貴族らを、民らを納得させるための儀式的な使いの筈だった。清麻呂は、「空気を読んで」、先の神託に誤りはございませんでした、どうぞ道鏡を天皇に、と言えばよかったのだ。しかし、清麻呂が持ち帰った神託は全く別のものだった。「そのようなどこの輩とも知れぬものを天皇になぞしてはいかん。さっさと掃除してしまいなさい。」というものだったのだ。


女帝と道鏡の清麻呂に対するしうちはひどいものであった。清麻呂を、「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名、姉の広虫を「狭虫(さむし)」と改名し、いずれも流罪としている。


恋人かわいさとはいえ、清いが穢い、広いが狭いとは…子供の仇名づけと同然の程度の低さである。1300年前の人間らではあるが、その下衆ぶりと心の小ささは、まるで現代の人のそれのようである。だが、だからこそ親しみも湧き、彼らが命を懸けて愛し憎んだ経験を学ぶ価値もあろうというものだ。