英進塾_先生ブログ

英進塾の講師によるブログです

たのしい民俗学(1)[Joy of Folkloristics, Part I]

座敷ワラシ、犬神、オシラサマ、神隠し、戸来村、ポトラッチ、悲しき熱帯、蕩尽、山姥、等の言葉を聞くと、わくわくしませんか?


闇のない現代社会において、「怪談」や「都市伝説」が好まれる嗜好とさほど変わらない興味に於いてですが、このような話は大好物です。


こうした民間伝承の研究をする学問を、「民俗学」といいいます。日本では、農務省官僚・柳田國男や、折口信夫(しのぶ)が有名です。


以下は、4年ほど前に、「姥捨て山」跡として有名な、岩手の「デンデラ野」へ行ったときに感じたことを書いたエッセイです。



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「後期高齢者医療制度」が実施され、75歳以上の高齢者に、年金からの天引きという感覚的にも大変不快なかたちでの負担増が強いられている。生活費を切り詰めざるを得ず、ギリギリの生活をしているお年寄りの様子などが、テレビのニュースで放映されているのをご覧になった方も多いと思う。ところで、この制度が実施されてから、「姥捨て山」という表現をよく聞くようになった。


私がこの言葉をはじめて聞いたのは中学生のころ。寺山修司のエッセイの中だったように思う。『書を捨てよ、町に出よう』、『家出のすすめ』などの著書で知られる寺山である。「家を捨てろ」とアジりながら、結局自分は母を背負い続けた寺山である。その中で語られた姥捨てのイメージは、「貧しい農村部にて、口減らしのために、働けなくなった老人を山へと捨ててくる」という典型的なもので、読むたび暗い気持ちになったものである。その悲しいイメージはしかし、高校生のころに見た、今村昌平監督の映画『楢山節考(ならやまぶしこう)』という強烈な映像の記憶であるような気もする。


さて、先日、柳田國男遠野物語』の遠野へ行った。これも中学生のころに読み、その世界で跋扈(ばっこ)する、天狗や河童、オシラサマ信仰や神隠しのエピソードなどに、心を躍らせたものだ。その私をして、実際の「姥捨て」地であったといわれている「デンデラ野」へ向かわしめたのは、当然のことであったろう。


平地の遠野から、田んぼ道を抜けて山へと向かう。そこは山間の台地上の場所にあるようだ。車を走らせながら、それにしても実に民俗学的、文化人類学的図式にピタリと当てはまることだ(図参照)、などと不遜なことを考えていた。



岩手の曇天の空に、ああ、このような老いた身なのにまるで旺盛に飯を食い働く若い者であるかのやうな歯が残っているのが恥ずかしいと自ら石を以って歯を砕いた老人たちが身を寄せ合って死を待っている悲しい情景を思い描きながら。そこにあったのは、荒れ野に、観光用のモニュメントと藁作りの再現された家(写真参照)。はたと、モニュメントの一文が目に留まる。



…老人たちは、日中は里に下りて農作業を手伝い、わずかな食料を得て小屋に帰り、寄り添うように…


なんと老人たちは、「捨て」られてからも、共同体と関わりを持ち続けたというのだ。これは、姥捨て山をたんなる「老人を、ゴミの様に捨てる非道な場所」と理解していた私にとっては、新鮮な驚きであった。もちろん、「捨て場」的姥捨て山も日本各地にあっただろうし、農作物の作況によっては、遠野でもそのような「捨て」はあったであろう。だが、「デンデラ野」への老人たちの出入りを「ハカアガリ」「ハカダチ」と言う言葉で表したという記録が残り、また今でも近く土淵村では使われている言葉であるという事情を鑑みるに、遠野の姥捨ては、その様な単純なものではないと考えるのが自然であろう。


…老人たちは、徒らに死んでしまふこともならぬ故に日中は里へ下り農作して口を糊したり。


確かに、労働力として使いもし、かつ半死人として少ない食料をしか与えない、という非道なシステムであると考えることもできる。だが、老人たちは、「ハカ」と呼ばれる半死者の世界からやって来るものであり、そこに於いて間違いなく、聖なる痕跡と卑なる穢れが同時に与えられる。
人が死ぬときに遠野では、デンデラ野で予兆があると言われる。男が死ぬのであれば、馬を引く音がし、女なら押し殺した話し声や歌声がそこからする。まさにデンデラ野は、生と死の境界にある場所だったのだ。そこからやってくる老人であるから、村人からは畏れられることはあろうとも、決して貶められてはいなかった筈だ。否、その両方であった筈だ。巫女的役割を負い、共同体の智恵者たちとして尊敬されていたのではないか、とも推測したくなる。それはあまりに楽観的にすぎるだろうか。




これは蛇足。この文を書く理由にもなった、「エッテクルッバ(ett klubba)」という古代北欧で使用されていた棒状の道具に就いて述べておく。当時の北欧では、人口増と食糧不足に対応するため、特に生産力の低い老人を崖から突き落として殺す風習が存在した。その後、崖から突き落としても生き残っている老人たちの息の根を完全に止めるために、この道具が使われたという。
理由ありとは云え、殴り殺すとはいかにも非道なり。身も蓋もない。情緒、含蓄という意味では、日本の「姥捨て」に軍配。